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イギリス映画の巨匠、ケン・ローチ監督の新作は、「弱者が弱者を搾取する」という、なんともやりきれない現実を描いた「この自由な世界で」。渋谷のシネカノンでの試写会で鑑賞。映画評論家で、明治学院大教授の四方田犬彦氏の姿も。

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ロンドンを舞台に外国人労働者の派遣業に乗り出すひとりの女性が主人公。シングルマザーで、複雑な年頃を迎えた息子の問題も抱える。自らが生活するために、ポーランドやウクライナなどから来る外国人労働者を「食い物」にする。まさに「搾取される者が搾取する構図」。多分、今や万国共通の構図だ。

ケン・ローチ作品のすごさは、そのディテールの描写に対する誠実さだ。
たとえば、作品に登場するイラン人・マフムードの人物設定。出版業を営んでいた父が王制時代の1950年代に、石油の国有化を宣言した「ムサッデク首相を支持した」かどで、逮捕されたほか、イラン革命後には、マフムード本人が、現イスラム革命政権から、「反体制の本を出版した」として自らも逮捕された、というもの。この、予備知識がないと、かなりわかりにくい設定には、イランの現イスラム革命体制だけが、言論の自由を抑圧しているわけではない、というメッセージだ。

イスラムに対する無自覚な批判を避けようとする、自覚的な人物設定と思われる。

また、ケン・ローチ作品に通底するものだが、主人公アンジーの描き方からしても、善悪を簡単に決めつけない、ケン・ローチの、表現者として、非常に謙虚な態度が改めてみてとれた。

ケン・ローチ作品については、拙ブログのこの記事も参照。


「ノッティングヒルの恋人」のロジャー・ミッチェル監督作品という。「スタイリッシュ・ミステリー」というジャンルがもしあるとすれば、結構好きな範疇なので、ともかく見に行く。日比谷のシャンテ・シネ。

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冒頭、イギリスの典型的田園風景。突然漂い降りてきた熱気球を着地させようと、たまたま居合わせた主人公の大学教師ジョーらが力を合わせるが、その過程で、助っ人の一人「オックスフォードの医師」が、気球から落下して死亡する。
ジョーは、自分が他に先駆けて救助を断念してロープを放してしまったことが、他の助っ人の断念の引き金となり、結果として、最後まで救助の意志を捨てなかった「オックスフォードの医師」を死に追いやったと自責にとらわれるようになる。

そこに、やはり田園でともに救助に加わった男性、ジェッドが現れ、ジョーを執拗に追いかけ回す。映画でも主人公が言っているが、強烈な体験に居合わせた人間の間に、強い親近感などの感情が生まれることはままある。

このストーカーの出現でジョーの自責は、さらに深まり、精神的不安定から、彫刻家の恋人との関係も悪化していく。

といったような筋。結論的には、ストーカーの出現で、大学で恋愛論を講じたりしていたジョーは、「愛はもっと単純なもの」というということを実感。自責の念は、田園での救助に、そもそも参加せずに「逃亡」した人たちもいたことを知り、トラウマから解放される。これらにより、こじれた恋人との関係も一応修復すると示唆される。
スタイリッシュ・ミステリーとしては好作か。
同じイギリス映画で、ダニー・ボイル監督「シャロウ・グレイブ」や、チャールズ・マクドゥガル監督 「HEART」などに近い感じといえるかも。この二つ、ちなみにクリストファー・エクルストンという男優が出演している。ちなみに、ちょっとこわい気のふれかれた役のエクルストン氏の演技は絶品だ。

ただ、ストーカーがジョーと恋人が同棲する家に現れ、ストーカーが恋人を刃物で刺す場面で、ジョーは、なぜ、ストーカーにキスをして油断させ、ナイフを奪って刺し返すという冷静で遠まわしな方法をとったのか。
本当に「単純な愛」に目覚めたのなら、恋人の命を助けるために、自分の命を顧みず、警察なりに通報するだろう。まあ、そういう指摘は野暮というのもので、「人間すぐには変われませんよ」という監督のメッセージなのかも知らないが、あまり単線的に描かなかったことが、むしろこの監督の見識ということか・・・。




フランスの巨匠ゴダール監督の日本最新公開作「アワーミュージック」に、パレスチナ詩人のマハムード・ダルウィーシュ(字幕等ではダーウィッシュと表記)が、本人役で登場している。

作品公式HP

本人演じるゴダール監督が、本に関するシンポジウム参加のためボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ入りするという設定で展開されるこの作品自体、さまざまな角度から味わうことが可能だろうが、ユダヤ人女性ジャーナリストとダルウィーシュの会話もそのひとつだ。

パンフレットに収録されているシナリオによれば、こんなやりとりだ。

ダルウィーシュ「喪失の中にこそ偉大な詩は生まれる。もし私が勝者の側にいたら、敗者への連帯を表明しただろう。なぜ我々パレスチナ人は有名なのか。あなたたちユダヤ人の敵だからだ。パレスチナ問題への関心とは、ユダヤ問題への関心から芽ばえるものだからだ。人々と私でなく、あなたに興味をもつ・・・(略)・・・・だが、イスラエルを敵にしたことで、幸運でもあるのだ。世界中で権力を握るユダヤたちのおかげだ。我々に敗北と同時に名声を与えたのだから・・・」

女性ジャーナリスト「あなた方の宣伝省ですね」

ダルウィーシュ「そう、まさに宣伝省だ。世界の関心は我々にでなく、あなたたちへ向く。これは私の思い違いなどではない」




フランス映画の俊英フランソワ・オゾンの新作。30歳代のカップル、ジルとマリオンが、出会い、結婚し、離婚するまでに起きた5つの場面を、「終わり」から「始まり」という逆の時系列でたどるという凝った構成の作品。

公式HP

恋愛が終った時、「なぜそうなったのか」を冷静、かつ、くよくよと考えたりする時の思考をなぞっているのと似ている、ということなのか。程度の差こそあれ、誰もが試みる思考を、映画作品として示して見せた点が、オゾンの憎らしいテクというか。


初めて見たオゾン作品は、「8人の女たち」。フランス伝統のミュージカル映画の体裁を取りつつ、鋭いドンデン返しミステリーを展開するのが新鮮だった。ていうか、台湾映画「カップルズ」に出たころから密かに気になっていたヴィルジニー・ルドワイヤンと、この作品で演技巧者ぶりを見せつけられたリュディヴィーヌ・サニエの2人に「やられた」、という側面も大きいが。 

「8人の女たち」特集

ヴィルジニー・ルドワイヤン日本ファンサイト


イギリス社会派の巨匠、ケン・ローチ監督作品。スコットランド・グラスゴーで出会った、アイルランド系女性ロシーン(カトリック・キリスト教徒)とパキスタン系男性カシム(イスラム教徒)の恋愛模様。東京・渋谷の「アミューズCQN」で現在公開中(写真は、アミューズCQNのウェブサイトから)。映画のタイトルは、作中で、音楽教師であるロシーンの指導を受けて女生徒が歌う曲(「やさしいキス」/詩:ロバート・バーンズ)から、と見られる。
今やメジャーとなったスコットランド出身男優、ロバート・カーライルらなどを起用しながら、イギリスの庶民の哀切を描いてきたケン・ローチ。今回の作品では、世界有数の多文化、多宗教社会であるイギリスで、文化的バックグランドが異なる男女二人が直面する困難を描く。インド、パキスタン独立の混乱での苦難を経験し、スコットランドの安住の地を見つけたカシムの両親は、イスラム社会の伝統ともいえる家族(親類なども含めた)重視の立場を貫き、カシムと、パキスタン在住の親類の女性を結婚させようとする。夫と別居中のロシーンと恋に落ちたカシムは、家族とロシーンのはざまで苦闘する。
結末は、ケン・ローチらしくないとも言えるハッピー・エンド。カシムの妹が、父の意に反して、グラスゴーから遠いエジンバラ大学に進学してジャーナリストになる意思を鮮明にする一方、カシムも、父を裏切ってもロシーンとの関係を貫徹する決意を暗示して、エンド。ケン・ローチ作品としては、やや陰影のない終わり方、という印象もあった。イギリスのイスラム教徒社会に共通していえる家族の紐帯の強さが、異文化社会の混交が進むに従って、変わっていかざるをえないんだ、ということをいいたかったのか、どうか、その辺は、わからないが。ちなみに筆者が最初に見たケン・ローチ作品は「ケス」であり、もっとも好きなのはスペイン市民戦争を題材にした「大地と自由」である。



私は見ていないのだが、2003年に日本でも公開されたブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」に「比肩する作品」(米紙ニューヨーク・タイムズ)とのふれこみ。「シティ・オブ・ゴッド」は、1960年代のブラジル・リオデジャネイロのスラム街に生きる少年たちを描いた迫真のフィクションだが、「バス174」のほうは、リオの路上生活者が起こしたバスジャック事件の実映像を軸に構成したノンフィクション・ドキュメンタリーである。
2000年6月12日、バス強盗に失敗したサンドロが、乗客11人を人質に取り、バス内に立てこもる。テレビカメラが映し出す事件の推移とともに、事件を引き起こすに至った、サンドロが過酷な生き様が、周辺人物のインタビューにより、描き出されていく。




テレビカメラに囲まれた中での結末。フィクションでないゆえというか、その終わり方は、あまりに救いようが、ない。サンドロがとった行為も、彼のたどった末路もである。
そもそも、サンドロには、要求は何もなかった。作中のコメンテーターが言うように、「社会に存在することに飢えている」ことが、サンドロが立てこもった理由なのか、とも思える。コメンテーターの「暴力は彼ら(路上生活者)の悲痛な叫び」という言葉も心に響く。見終わった後、しばらくひとりになりたい映画だった。
作品は、6月4日から、東京・渋谷のライズXで公開される。
(写真は、配給元のアニープラネット提供)


別に意図している訳ではないが、また「ちょっとイタイ感じの女」が登場する映画を観てしまった。「ブリジットジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月」。
「ちょっとイタイ感じの女」とは、私の用法ではありませんが、拙ブログ「彼氏は『戦争写真家』」のmegさんからのコメント参照。

ご存知イギリスのベストセラー小説の映画化第二弾である。続編は、めでたく人権派の大物弁護士マークと付き合い始めたブリジットジョーンズが、マークの堅物ぶりや、マークを取り巻く「保守的な」人々との人間関係などに悩み、一度は別れるが、あるブリジットの窮地を救ったマークを見直し、よりを戻してついに、ゴールイン、というお話。
こう書くと、あまりにみもふたもないが、まあ、筋書きとしては、これだけである。前作同様、マークとヒュー・グラントの乱闘シーンなどもしっかり織り込まれ、二作目というのに、かなり水戸黄門化が激しい。
ちょっと、へえ、と思ったのは、人権派弁護士のマークが、ブリジットジョーンズがいうところの「デブでハゲのトーリー(保守主義者)」に属しているという描き方。日本とは感じが違うんだ・・・。
「ホームレスは、ホームレス自身に問題がある」とかなんとか言っている、マーガレット・サッチャー流の「保守」と、人権派は、英国では矛盾しないのか。
まあ、ともかく、「ピューリッツアー賞を目指すジャーナリスト」(本人言)であるブリジットジョーンズは、そうした保守の空気になじめない。こういうのって、結構深刻なことなんじゃないかあ・・・なんて思っていると、お話は、割とあっさり、コネをフル活用した、マークの大活躍に感激したブリジットジョーンズが、「やっぱりマーク」ということになって、メデタシメデタシ。続編だし、前回の経緯から言って、ハッピーエンドにするためには、今回、二人がゴールインという結末にするぐらいしか、選択肢はなかったのだろうが、やや安易な続編、と思うのは、私だけではないのでは。
レニー・ゼルウィガーは、「ザ・エージェント」でトム・クルーズの相方役だったときとは、ずいぶん変わってしまったなあ。役作りのためとはいえ。

ブリジットジョーンズ公式HP




別に意図している訳ではないが、また、写真家が出てくる映画を観てしまった。
拙ブログ記事参照
ソフィア・ローレンの通算100作目を飾った「微笑みに出逢う街角」。ローレンら女性3人の交錯する人間模様を描いたもので、監督は、ローレンの息子、エドアルド・ポンティ。
3人の中の1人、新進報道写真家(フォト・ジャーナリスト)のナタリアを、ミラ・ソルヴィーノが演じる。ハーバード大卒という異色の経歴だが、ウディ・アレンと共演した「誘惑のアフロディーテ」、ハーヴェイ・カルテルと共演した「ルル・オン・ザ・ブリッジ」などの演技が印象に残っている。
そのソルヴィーノ演じるナタリアは、内戦続くアンゴラで少女を撮った写真が、米誌「タイム」の表紙に掲載され、華々しくデビューする。やはり報道写真家の父は、大喜びだが、ナタリアの顔はさえない。炎に包まれる家をバックに写真におさめたその少女の、その後の生死が分からないからだった。
筋を明かして申し訳ないが、結局、ナタリアは、カメラを置き、国連ボランティアとして、再びアンゴラに行くことを決意する。
「あの時、なぜ少女を助けず、写真を撮り続けたのか・・・」と悩むナタリアに、父は、「写真家は、ただ真実を示せばいい。判断はそれを見る人が示すのだ」と諭す。
だが、ナタリアの決心は変わらない。
ここで示されているのは、「死にゆく人を前に、写真家はどうするべきか?」という、古くて新しい問題だ。
思い出すのは、ハゲタカにまさに襲いかかられんとしている少女の写真でピューリッツアー賞を受け、その4か月後に自殺した南アフリカの報道写真家ケビン・カーター氏だ。
カーター氏と同様、ナタリアも、「少女を見殺しにして、自らの功を得た」ことを自ら責め、写真家をやめ、ボランティアとなった。こうした呵責を「ナイーブ」として切り捨てることは、もちろんできないが、内戦であれ、阪神大震災であれ、組織に所属するうんぬんに関わらず、メディアの一部として、「現場」に立ち会う者には永遠についてまわる問題だ。使命感などという言葉を弄するつもりはさらさらない。だが、自分が伝えたことが、そこで起きている現実を外側に伝える一助にわずかでもなっている、という確信が多少でも得られれば、それが心理的な安定を得る有効手段にはある。そういう気持ちを多少でも持てなければ、「フォト・ジャーナリスト」を続けられない、ということなのかもしれない。

「微笑みに出逢う街角」公式HP
ケビン・カータープロフィール
ミラ・ソルヴィーノ紹介記事


都内で公開中の映画「ビフォア・サンセット」を観た。「キル・ビル」「パルプ・フィクション」などで知られるユマ・サーマンの夫(と、あえて言ってしまう)のイーサン・ホーク(写真左)と、ジュリー・デルピー(写真右)の主演で、9年前に旅先のウィーン近くで出会った二人が、パリで再会し、その後と現在を語り合う、という筋。その、9年前のウィーン一夜を描いた「恋人たちの距離」(1995年)という作品の続編だ。前作を見ていないと、とても観る気はしないと思うが、恵比寿ガーデンプレイスの映画館は、平日の昼下がりというのに、結構込んでいた。
この手の、「二人のその後」を扱った作品としては、英国のベテラン、ルイス・ギルバート監督が撮った「フレンズ」「続フレンズ」がある(ブラッド・ピットの元妻出演のものとはもちろん、別モノ)。子どものころテレビで、ドキドキしながら観たのを覚えいる。今回、足を運んだということは、結構、この手の続編モノに弱いのかも知れない。「それから」も好きだしな。
それはともかく、その「ビフォア・サンセット」で、デルピー演じる32歳・独身・環境保護団体勤務のセリーヌは、戦争写真家(War Photographer)とつきあっているという設定。作品のオフィシャルHPでは「戦争を撮っている報道写真家(Photo Journalist)」とあるが。作品では、セリーヌは「War Photographer」と言っていたはず。日本語では「戦場写真家」のほうが一般的かも。
「恋愛で散々痛い目にあってきたため、『もう恋は無理。独りでも別に寂しくないし』」(オフィシャルHP)というセリーヌというキャラクターに説得力を持たせるため、始終戦場に行って、よう会えない彼氏という設定(実際に本人は登場しないが)を作ったのだろう。
 それは、分かるが、ややこっぱずかしい気がした。思えば、彼氏が「War Photographer」という設定は、映画に限らず、フィクションによく登場する設定だ。この作品で誰がこの設定を考えたかは不明だが、HPによると、キム・クリザンという女性が「前作に続き原案を担当」とある。本朝でも、林真理子の小説「戦争特派員」(読んだことないが、産経新聞に連載されていたんですね、さすが、近藤紘一がいた会社!)や、篠田節子のキプロスもの「インコは戻ってきたか」も、そうではなかったか。他に、あったような気がするが。どうも、「彼氏が戦争写真家」というのは、フィクションを書く際、女性が好む設定のような気もしてくる。
それは、「女性は、戦争写真家を好む」、すなわち、「戦争写真家はモテル」ということなのか。自分が知っている何人かのパレスチナやイラクの戦場を取材していた写真家を頭に浮かべてみる。一、二、三、四、五・・・。確かに、まるめていってしまえば、皆カッコいい人たちだった。
だが、そんな、一見、オイシそうな、「戦場写真家」という命名からあえて逃れようとしている写真家もいる。最近、「闇の奥からの光」というブログをスタートさせた写真家だ。写真家としての葛藤を率直に吐露するこのブログを読むと、彼がなぜ、「戦争写真家」あるいは「戦場写真家」というステレオタイプなレッテルを、よしとしていないのかが、よく分かる。
当たり前のことかも知れないが、絵に描いたような「戦争写真家」などは、いない。が、フィクションに登場する「戦争写真家」は、不思議とステレオタイプで人間像に深みがない気がする。「ワイルド、でも影がある」で統一、みたいな。
「ビフォア・サンセット」で戦争写真家は、単なる小道具なわけで、「オレって考えすぎか?」とは当然思ったが、ちょっと疲れ顔がいいドルピー(再評価)を見ながら、そんなことをつらつらと思った。背景となったパリの景色は、あんまり、「パリ、パリ」していなくて良かったと思った。って、何も映画のこと、触れてないか・・・まあ、中身はあえて言うことのない作品ではありました。ところで、あの、橋田信介さんも「戦場特派員」という本を書いていましたか。合掌。


闇の奥からの光
「ビフォア・サンセット」公式HP
ルイス・ギルバート
林真理子「戦争特派員」


邦題「フレンチなしあわせのみつけ方」というフランス映画の試写会に行って来た。配給・宣伝元であるアニープラネットさんの厚意でである。写真もアニープラネット提供。
2004年フランス104分
監督 イヴァン・アタル
主演 シャルロット・ゲンズブール イヴァン・アタル

4月に東京・渋谷のシネ・アミューズで公開予定。カフェバグダッドでなぜフランス映画紹介なのか。私の個人的趣味も否定しないが、実は、この映画、中東とのつながりが2点ある。
1.監督・主演のイヴァン・アタル(実生活でもシャルロット・ゲンズブールの夫)は、イスラエル・テルアビブ生まれである。
2.映画の中でガブリエル役を演じるシャルロット・ゲンズブールが子どもと二人でバカンスに行った先は、どうも、エジプトのリゾートホテルである。



【ちなみに】
1.イヴァン・アタルを初めて見たのは、「哀しみのスパイ」(エリック・ロシャン監督)だった。この作品で、アタルは、イスラエルの諜報機関モサドのスパイに志願する主人公の在フランス・ユダヤ人を演じていた。まさにはまり役だった訳だ。この「哀しみのスパイ」、どちらかというと、「ダサ面白い」といった印象だったが、1994年カンヌ映画祭出品作。ちなみにこの年のパルムドールは「パルプフィクション」(クエンティン・タランティーノ監督)だった。もうひとつちなみに、「哀しみのスパイ」でスパイ役を演じた英国人女優サンドリーヌ・キベルランの秘やかなファンである。誰も知らない、か。

2.作品の中で、リゾートホテルに滞在するゲンズブールをナンパする男がウェイターに「ハサン!」と声をかける。ハサンは、アラブ人の名前である。また、ゲンズブール(だったかな・・)が「3200キロも離れて」と言うくだりがある。パリから3200キロの距離というと、どの辺か。「how far is it」というサイトで調べると、パリ?カイロは3220キロ。だいたいぴったりだ。だが、ゲンズブールがパリに帰るために飛行機に乗る空港は、いかにも田舎の空港といった風情。カイロではない気もする。感じとしては、エジプト南部ルクソールか、シナイ半島のリゾート地シャルムエルシェイクの空港である。いやいや、こんなところばかり気になるのは問題だ・・・。


そんなことよりも、映画の紹介である。(続く)



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