人々 Peopleの最近のブログ記事

追悼。「親イラク家」

| コメント(9) | トラックバック(0)
前から気になっていたのだが、11月21日付毎日新聞夕刊コラム「憂楽帳」を読み、「やはり、そうだったのか」と思った。

「アラブ問題研究家」の阿部政雄さんが、亡くなっていたのだ。
多分、阿部さんがやっていたのだろうと思っていたブログ

アラブにかける虹の橋

が、5月1日の「アラブ映画祭」に関する記事を最後に更新されていなかったので、どうしたのだろう、と思っていたからだ。
阿部さんは、在東京イラク大使館に長く勤務していた。筆者も何度かお会いしたことがある。特に、2003年のイラク戦争開戦直前、マスコミ各社やジャーナリストが、イラク入りのためのビザ獲得に奔走していた頃には、大使館で阿部さんと話した人も多かったのではないか。

阿部さんは、ブログを始める前から、「日本アラブ通信」というHPを立ち上げ、アラブ文化発信を行っていた。記事からは、ウンム・クルスームなど、アラブ歌謡への造詣の深さが感じられた。かつて在京アラブ諸国大使を招いて古賀政男邸で開かれたパーティの思い出なども書かれていた。

理由は分からないが、現在「日本アラブ通信」は、ページを見ることができない。
今年4月の「アラブ映画祭」の中のシンポジウムで、アラブの映画監督に質問をしていたの見たのが、最後になった。
記事によれば、享年77歳。心から冥福をお祈りしたい。

阿部さんがブログ開始前に配信していたメルマガ
アラブ文化芸術情報
関連ページ

ペルシャ湾岸に面したサウジアラビア東部州カティーフに近い海岸で、水揚げした魚を前に大漁を喜ぶサウジ人漁師たち。厳格なイスラム教国家で、男性といえど、体の肌を公共の場でさらすことはないサウジでは異例といえるが、一部の漁師は、半ズボン姿。スポーツ同様、漁の場合はさすがに例外なのだろう。近くのレストランで食べた取れたての魚やロブスターもさすがに美味だった。


アラファト氏の後任を決めるパレスチナ自治政府議長選挙に、マルワン・バルグーティ氏が、出馬した。パレスチナ解放機構(PLO)若手幹部のバルグーティ氏は、現在イスラエルの獄中にあり、夫人が代理で立候補を届け出た。新世代リーダーの筆頭格で、アラファト氏亡きあと「旧世代」を代表する対立候補のマハムード・アッバス自治政府前首相に比べて、大衆的人気が格段に高く、当選は間違いないともいわれている。投票は、来年1月9日。果たして、結果はどうなるか。
人気は、45歳という彼の若さや、汚職にまみれていない清新さだけから来るものではない。常に民衆とともにある、という彼の行動・姿勢が、強い共感を呼んでいるのだ。
2000年秋に始まった第二次インティファーダ(対イスラエル蜂起)の直後、ヨルダン川西岸ラマッラの街で、バルグーティ氏をよくみかけた。当時、通例になっていた毎週金曜日のイスラム教の礼拝後のデモ行進の隊列の中にだった。イスラエル当局からマークされ、地下に潜伏する前のことだ。身長170センチに満たない小柄な体をデモ隊の中から見つけるのには苦労した。
そのラマッラの一角にあったバルグーティ氏の事務所には、氏の執務机の後ろに、イスラム聖地エルサレムのアル・アクサ・モスクの写真が掲げられていた。当時、パレスチナの名門、ビルゼイト大学で政治学の講義も持っていたバルグーディ氏は、理路整然と、イスラエルへの「反占領闘争」の意義を語ってくれた。



廃墟の中から

| コメント(401) | トラックバック(0)
2001年4月、イスラエル軍の猛攻にさらされ、廃墟となったヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプの中心部で、破壊された家の「跡」から、家財道具を探すパレスチナ人の子どもたち。こうした逆境の中で、カメラに笑いを向けることができてしまうほど「戦乱慣れ」してしまった、子どもたちの境遇は想像を絶するものだ。今、あのジェニンの街は、どうなっているのだろうか。


祝日の子どもたち

| コメント(394) | トラックバック(0)
2002年2月、パレスチナ自治区ガザで、イスラム教の祝祭「イード・ル・アドハー」(犠牲祭)で特設された「観覧車」に乗って歓声をあげる子どもたち。イードは、日本でいえばお正月。年に一度の晴れ着を着て、親などからもらったお小遣いで、おもちゃを買う。


殉教者と少年

| コメント(371) | トラックバック(0)
イスラム教の「犠牲祭(イード・ル・アドハー)」明けの日、パレスチナ自治区ガザの街角に張られた、イスラエルに対する「自爆テロ」を行ったり、イスラエル軍の攻撃で死亡した「殉教者」のポスターの前で、おもちゃのピストルを持って、晴れ着姿で、ポーズを取る少年たち。写真の中には、米同時テロ首謀者とされるウサマ・ビンラーディンや、イスラム教シーア派民兵組織ヒズボラ指導者、ハッサン・ナスラッラーなどの写真も混じっている。


イラクのサダム・フセイン元大統領は、1990年代、イスラム教シーア派の反体制派の拠点を壊滅させるため、イラク南部の広大なメソポタミア湿原に注ぐ川を水門をせき止め、湿原を干上がらせた。フセイン政権崩壊直後の2003年4月、この開門を開ける決断をし、湿原に再び水を注ぎこませたのが、イラク政府かんがい局ナシリヤ事務所長のアリ・シャヒーン技師(写真)だった。ナシリヤの事務所で会ったシャヒーン技師は、ひからびた湿原を去って流浪の暮らしを送っていた元住民の感謝の声にも、淡々と「やるべきことやっただけ」と答えていた。「住民のため」という一心で、危険をかえりみず水門を開けたシャヒーン技師のような官僚がいることは、混乱の続くイラクの復興に向けた一筋の光、というような気がする。


イラクの首都バグダッド南部のモスクの前で遊びに興じる子どもたち。このモスクは、サダム・フセイン元大統領の出身地であるイラク中部ティクリート出身のフセイン政権幹部により建設され、フセイン政権時代は「ティクリーティ・モスク」と呼ばれていた。モスク周辺には、ティクリート出身者が多く住んでいたという。だが、政権崩壊後、モスクを訪ねると、住民たちは、フセイン政権に恨みを抱く人々の報復を恐れてか、「我々は何も知らない」と口をつぐんだ。


若き評議会議長

| コメント(4) | トラックバック(0)
自衛隊が駐留するイラク南部サマワの東約25キロにある小さな町、ヒデルの議会に相当する評議会議長のマジード・アブドラ氏。船員として海外での勤務経験も豊富で、英語が堪能。30歳代後半の若さで、地元ムサンナ県庁、駐留オランダ軍、自衛隊との橋渡し役である評議会議長に抜てきされた。ややトム・クルーズ似でもある。砂漠のただ中に位置し、水道や下水道もろくに整備されないままフセイン政権に見放されてきたこの町を「なんとかして、復興させたい」と力強く語っていたのが印象的だった。


2003年12月に行われたイラクの「警察庁」にあたる総合警察局の発足式で、厳重な警備の中、記念演奏を行うイラクの警察音楽隊。暫定政府管轄下のイラク警察は、また、十分な装備も持てないまま、米軍のイラク駐留に反対する反米武装勢力の攻撃にさらされている。


このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち人々 Peopleカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは食べ物 Foodsです。

次のカテゴリは水タバコ Waterpipeです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.261